思い出にするにはまだ早すぎる

 書こうか書くまいか悩んだけれど、いつかの自分自身のために、いま感じていることをここに書き残そうと思う。できるだけ早く感情を詰め込んでおかないと、こんな前置きを書いているこの一秒一秒の間にも、強烈だったはずの感情がだんだんと薄れていって、一生思い出せない心の片隅に逃げ込んで行ってしまうような気がする。

 

 

 理性も感情もぐちゃぐちゃに混ざり合い、「いくつ言葉を並べてみたってこの想いは伝わらないだろう」という歌詞そのままの状態に迷い込んでいたとき、なぜかふと自分の中でしっくり来る感想が浮かび、急いで打ち込んだのがこのツイートだ。

 ひとつ前のブログにも書いていた通り、4年間も心を離していたのだから、ところどころで懐かしさは感じたとしても、卒業コンサートの数時間は、すんなりと僕の中を通過していくものだと予測していた。現在進行形のファンと比べれば、何かがこみ上げて来るなんて、いや、そもそもこみ上げて来るその"何か"すら持ち合わせていないのが自分だと思っていたのだ。

 しかし、そんな想像は開幕後一瞬にして散り、僕は正直一曲目のさくたべからもう泣き出したくて仕方なくなってしまった。この卒業コンサートは、僕が宮脇咲良さんと出会い直す、そんな時間だった。

 

希望的リフレイン

 僕はこの短い人生の中で、どれだけの回数この曲を聴いてきただろうか。歴代のセンターたちが金色のマイクをリレーするあの映像を、何度見てきただろうか。

 卒業コンサートにおけるパフォーマンスの何が特別かというと、もちろんそれが最後の機会だということなのだが、言い換えれば、これまで当たり前のように何度も見てきたその曲とパフォーマンスが、いまここで明確に終わりを迎えるという事実と向き合いながら、目の前で止まることなく展開される、ということである。その向き合いと覚悟によって我々ファンの側にもたらされるのは、その瞬間の「これで終わってしまう」という寂しさだけではなく、今日までのその曲を聴いていたありとあらゆる瞬間への恋しさだと僕は思う。もっと言えば、むしろ僕はその思い出たちに、より強く感情を揺さぶられるのを感じた。

 高校からの帰り道に、小さなツタヤがあった。冬の寒さも厳しくなってくる頃、時間があればそのツタヤに立ち寄って、視聴用のヘッドホンから『希望的リフレイン』を大音量で聴いていた。大学に向かう混雑した電車の中、ドアに押しやられて仕方なく窓の外を眺めていたときも、イヤホンからは『希望的リフレイン』が流れていた。そういうひとつひとつの『希望的リフレイン』が、最後であるという覚悟を胸にすることで一気に思い出されるのである。

 涙が流れるのは、感情が脳の容量を超えて溢れ出したときだと言うが、普通の日常でそんな事態はなかなか起こらない。僕はこの曲が本当に大好きだったし、聴くたびに「好きだなぁ」という感情は抱いていたけれど、それは決して脳の容量を超えるほどの強さではなかった。でも、そうやって今まで少しずつ感じていた「好き」が、卒業コンサートという最後を意識させられるこの場では、全て足し合わされて襲いかかってきたかのように思えた。そして、長い時間をかけて積み上げられたこの感情は、当たり前のように脳の容量を超えるのだ。

 

LOVE TRIP

 「Love trip 帰ろう 胸の奥にしまっていたあの頃」

 「恋はいつしか上書きされて行くもの だけど最初の切なさ覚えてる」

 「恋は消えずに心が蓋をするもの だから時々開いてみたくなる」

 これは全部本当にそう。改めて聴いて、こんな歌詞だったんだ、とため息が出た。今の自分にあまりに深く刺さりすぎて、ステージ上で舞う宮脇咲良さんがあまりに清く美しくて、ここで涙が止まらなくなってしまった。今日この日から『LOVE TRIP』を聴いたら自動的に涙が流れる、パブロフのオタクになるかもしれない。もう聴くのが怖い。

 この卒業コンサートは、僕にとってどうやらLOVE TRIPなのである。僕には、咲良ヲタとして生きた2年半という決して短くはない"あの頃"が存在し、飽きたというわけでもないのに距離を置いて"心が蓋をした"のだ。新たに好きなアイドルと出会いながらも、どこかでずっと"最初の切なさ"を抱えながら日々を過ごし、4年間という時間を超えて、"あの頃"のままの感情をひと思いに"開かれた"のが、この6月19日だった。

 僕はアイドルのファンであり、そこに介在していたのは恋ではない(と言ったら嘘になるかもしれないが)ので、この歌詞への共感の仕方はおそらく正しくないのだろう。だから、勝手に自分に当てはめるなというご指摘をいただきそうなのだが、そこには時間の経過とそれに伴う感情の変化が最大公約数的に存在し、時を経て変わってしまった自分の気持ちと、実は変わっていなかった自分の気持ち、その両方に気づかせてくれた『LOVE TRIP』のパフォーマンスは、この卒業コンサート全体の中でもかなり強く印象に残るものだった。

 

大人列車・12秒

 当然来てくれるだろうなという想像はしていたものの、卒業生のコメントVTRに二人がいないことでホッと安心し、今か今かと待ち望んでいた最高のタイミング、そして最高の曲目で登場した二人の戦友、はるっぴとさっしーを見て、その日いちばんの笑顔を浮かべながら僕は泣き崩れてしまった。

 めちゃくちゃオタクな話をすると、『大人列車』の歌い出しの「動き出した車輪」、この一文字目の「う」が特徴的なはるっぴの声で発された瞬間の「これだ!!!」という衝撃がもう本当に凄まじかった。非常に申し訳ないことに、僕の中でのHKT48は4年前のまま一度止まっているから、この二人が横に並んだときには、これぞHKT48と思わされる納得感があった。そして、久しぶりに同じ画角に収まっている二人を見たときに、二人のそれぞれに色々な苦難があり、二人の間にもきっと楽しいだけではないたくさんの出来事があったのだろうと想像したら、眼前に広がっている景色がすごく奇跡的なものに思えてならなかった。

 『12秒』でさっしーまで並んだ瞬間のえも言われぬ懐かしさは、至極当然のように感情への揺さぶりを加速させた。いま改めてよく考えると、我々があれを見て感動できるのは、その三人がセンターを張っていたかつての時代を知っているから、というだけが理由ではない。かつての時代を知り、そして、彼女たちがいなかった時代があったことを知っているからこそ、強く心を動かされるのだと思う。当たり前だったものが失われ、この卒業コンサートがあったからまたこの姿に出会えたのだという、今日という日の特別さをさらに濃密に感じさせられたのがこの瞬間だった。ラストのカウントダウンを恥ずかしがっているさっしーが、あの日のMステの記憶を僕の元まで運んで来るのだ。

 宮脇咲良さんが抱え続けていた、さっしーの卒コンに参加できなかったことへの申し訳なさも、マリンメッセを埋められなかった頃のエピソードも、三人が同じステージに立っていることの意味も、きっと僕たちとは比べ物にならないくらいの思いが彼女たちの中にはあって、ファンの立場からはどうやっても共感できないのだろうけれど、涙ながらに語り合うその姿を見て、ただただ純粋に、美しいな、と思った。

 

君はメロディー

 例えば、「宮脇咲良10年の軌跡」と言われて紹介される、彼女が歩んできた歴史というものは、非常に客観的なものである。いつデビューして、いつセンターになり、いつIZ*ONEになって、いつ卒業を発表したか。これを見ただけでも、その素晴らしい成長や圧倒的な進化を感じて心に来るものはあるのだが、僕たちが最も胸を打たれるのは、宮脇咲良という存在と自分とが交差しながら進んだ歴史なのではないだろうか。

 「45thシングル選抜総選挙宮脇咲良は第6位だった」という出来事を聞いたとき、その頃の僕は大学1年生だったとか、いちばん握手会に通っていた時期だったとか、そういえば握手会での話題作りも兼ねてさくめーるでさくらクイズが出題されていたとか、そういう"宮脇咲良さんを軸に自分が過ごしていた時間"を僕は思い出す。そして、このような主観的な時間と記憶を携えているからこそ、客観的な歴史を紹介されたとき、自分の中にもリアリティーのある今日までの時間の流れが立ち現れ、その間の様々な変化を思って涙するのである。

 僕が大好きな曲のひとつである『君はメロディー』は、『LOVE TRIP』よりも穏やかで間接的でありながら、時の流れと心変わりをより強烈に感じさせる。

 「何を忘れてしまったのだろう? 新しいものばかりを探して 今の自分に問いかけるようなあのMusic」

 ここで言うところの「あのMusic」が、僕にはこの『君はメロディー』自体になっているのだが、聴くたびに「何かを忘れている」ということを思い出させてくれるのがこの曲だ。僕は、僕の中にある僕だけの「宮脇咲良の歴史」を大事にしなければいけない。忘れてはいけない。卒業コンサートで莫大な時間の流れを前にして散々涙を流した後、終盤も終盤に披露された『君はメロディー』を聴きながら、そんな風に自分に言い聞かせた。こうやって感動できることそれ自体が、僕が宮脇咲良さんとともに過ごした時間の証左であって、感動できたという事実にこそ、すごく貴重で大きな意味があるのだ。

 

 

 ここまでの曲名と感想は、いま振り返って強く思うところがあった箇所であり、また、曲名を見出しに冠しながらも、特にその曲に限定した感想だけを述べていたわけではないのだが、もちろんここには書ききれていないたくさんの部分で、僕は泣かされ、笑わされた。歌って踊りながら見せてくれる、彼女のふとした瞬間の表情に時を戻され、他のメンバーの言葉や視線に時を感じさせられた。言って見れば、言葉をどれだけ紡いでもキリがないのである。

 MCで村重が「少しは嫌な奴になって戻ってきてほしかった」と言っていた。本人は、警備員の話とか獅子舞の話とかを気に入ってほしそうだけど、なんというかこの言葉に彼女たちの関係性の"全て"を感じて、本当に印象的だった。繰り返し書いているように、時間の流れとは変化をもたらすものであって、一度距離をとって時間が経てば、次に出会うときには何かが変わっていて然るべきなのだ。僕たちはきっと、多大なる変化を思って感動し、そうやって変化を感じることでようやく気づける"変わらなさ"を知って再び泣いてしまったのだろう。

 

 

 「昔から支えてくれる皆さんも、最近好きになってくれた皆さんも、昔は応援してたけど今はそこまで...って方も、(中略)私はその全ての人に感謝の気持ちを伝えたいです」

 この数年間、サヨナラに永遠の誓いを込めたばかりに、好きだよと言えず、胸の痛みに気づかないフリをしながら過ごしていた。歌詞に掛けただけの冗談みたいだが、正直なところこれは本心で、また、そんなことを思っている自分があまりに身勝手にも思え、昔のアカウントに今さらどんな顔でログインすればいいのかと迷ったりもした。本当に、どこにも合わせる顔がない。自分から去っておきながら、なんとも馬鹿な話である。ただ、心のどこかに引っかかっていた、そういう小さなトゲみたいな思いが、彼女のこの言葉ですっと溶けて、涙とともに流されたように感じた。ドンと、胸を突かれるような思いがした。一番目の「皆さん」にはなれなかったけど、僕はやっぱりこの人のことが大好きなんだと思う。

 

 7年前の初夏、あなたに出会えて本当に良かった。

 2021年の初夏、あの頃のたくさんの思い出と一緒に、再びあなたに出会い直すことができて本当に良かった。

 そしてまたいつの日か、この卒業コンサートの思い出まで携えて、どこかで出会うことができたとしたら、こんなに幸せなことはないだろう。

 

 ......いや、思い出にするにはまだ早すぎる。